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自主プロの思い出 ~僕の見た地獄。~
あれから7年……
ふと過去の書きかけの記事を見ていたら、ほぼ完成している原稿を見つけました。自主プロの話です。作成日は2011年2月11日。修論発表後の人生最後のボーナスステージの時ですね。
実際の事件は2009年~2010年2月末なので、修論などすべてが片付いて一段落していた頃に1年前の地獄を振り返ろうという企画でしょう。今さらも今さらだし当時の関係者もここを見ている人はほぼいないのであまり意味はないですが・・・ちょっと感慨深くて今でもなるほどなぁと思う内容もあるので載せてみます。
自主プロとは:
大学院の演習科目・自主プロジェクト演習Ⅰの略。学生が最大10万円の予算を与えられて、自主的に何らかのプロジェクトに1年間取り組み、その成果を発表するというもの。
履修に至った経緯:
2009年度初頭。当時私はM1。
おくちん (もう1人のM1)「自主プロ!やろうぜ!! 」
私「おう!やるとも!! 何やる?」
奥「うーん……」
私「うーん……」
先生「つくばチャレンジを想定した屋外自律移動ロボットの開発とかどや!」
奥「うーん……そんなの1年で出来るんですか?」
先生「とりあえず出来るとこまで作ってみて、試験走行して、開発の基礎となるデータを取得するみたいな感じでええやん!」
私「やる意味というか…新規性はあるんですか?」
先生「そんなん言いだしたら元々つくばチャレンジなんてやる意味無いやん。んっ?」
私「はぁ……」(いや、それは違うだろ……)
奥「じゃあそれでいこっか」
私「他に案も無いしね……」
気付けば私は プロジェクトリーダー になっていた。たった2人のプロジェクトチームでリーダーも糞も……と思われるかもしれないが、大違いである。リーダーには全責任がある。プロジェクトを推し進めていくのはリーダーの役割である。発表もリーダーが行わなければならない。
斯くして糞プロジェクトのデスマーチの歯車は、ゆっくりと回りだしたのであった……
前期:
実際、やることはおぼろげに決まったものの、前期は何もしていなかった。講義、課題、研究、学会、そして私は非常勤講師のバイトなど、やることがあまりに多過ぎた。
その間に、ロボットのシステム設計は、何やかんやで先生が決めていった。システム設計というほどのものでもないが、この RC カーを台車にしてこのマザボを乗せて、電源はこの無停電電源にして、センサはこのステレオカメラで……というふうに、「何を使うか」を先に決めた。普通は要求を定めて、それに見合った仕様を決めていくものだが、このおっさんはそんなビジョンなど持ち合わせてはいなかった。なんとなくの世界である。
というか、自分の買いたいモノを買ったという感じか。先生には、電子工作パーツの収集癖があった。他にも別のプロジェクトで、明らかに必要ないだろうと思われる大量のマイコンボードを買わせたりしていた。公金の無駄遣いも甚だしい。
後期(10~12月):
さすがに私は焦り始めていた。もともと2,3年がかりでやるようなプロジェクトをたった1年でやるというのに、何もせずに半年が過ぎ去ってしまったのだ。そこで図1のような TODO リストを作り、研究室の壁に貼り付けた。
しかし、今度は2月の国際会議に向けた要旨・論文作成などが本格化し始め、やはり進まない。こういったマルチタスク状態に陥ることのリスクと恐ろしさを、4月の時点では誰も考えなかったのだ。結果的に何も成果物が得られないまま年末を迎えた。私の心には、この頃から暗雲がたれこめる。生きた心地がしなかった。いっぽう先生にとっては他人事だから、あくまで能天気である。いちおう物品購入期限があるので、買うべきモノだけは発注しておいた。
後期(1月):
就活の足音が聞こえ始め、先輩・後輩たちは卒論修論の大詰め。非常に慌ただしい時期である。そんな折、研究室が崩壊。先輩・後輩を何とか助けるため手伝いに奔走(ほとんど何もできなかったが)。さらに2月頭に迫った学会の準備。ときどき入る就活関連のアクション。で、ほとんど何も進まず。自主プロ発表会は2月末。
最後の3週間(2月):
2月頭の学会を何とか終え、そこから真のデスマーチ開始。ガチで2週間ぐらい帰宅せずに作業に没頭した。図2に、当時作ったスケジュール表を示す。
その頃の私は、何か作業をしてないと不安でたまらなくなるという状態に陥っていた。発表当日がやって来るのが、現実と思えなかった。こんなので発表するのか? 許されるのか―でももう逃げようがなかった。もう満額10万円の公金を注ぎ込んでいるのだ。そういう罪悪感とプレッシャーも私を苦しめた。当時の日記を見ても、ダークな雰囲気が伝わってくる。そんなふうに次々と沸いてくる心の闇から逃げるために、ひたすら作業をした。
当時の開発ドキュメントを見れば、どれだけ初歩的なことをやっていたかがよく分かる。結局我々がやったことは、ラジコンを組み立ててマザボを乗せて、マイコンボード経由で 1ch サーボの操作および DC モータの PWM 制御をマニュアルでできるようにしただけだ。それだけでも大変な作業だった。制御信号を送るための信号設計とシリアルプログラミング、サーボの信号フォーマット解析、モータ駆動回路の設計と実装など、ゲロが出るほど大変だった。
その他、無理矢理超音波ソナーと赤外線センサなどを付けたりもした。この期に及んで何の意味も無かったが、いちおう付けてみた。
終焉:
2月24日、ついに自主プロ発表会。よく晴れた冬の日だった。世界の終わりは眩しい……そんな想いが脳裏をよぎった。私は当日の午前3時ぐらいから発表資料を作り始め、いちおう完成させた。
発表は講義棟の一室で行われた。私は午前11時ごろの発表だった。ずらりとならんだ情報科学研究科教員……卒論・修論発表よりも多かった。その前で、高校生の自由研究みたいな発表をした。ゴミカスだった。当然突っ込まれ、大恥をかいたが、とりあえず終わった。この苦しみと、その後の信じられないほど晴れやかな解放感を、私は生涯忘れはしないだろう。
ちなみに先生(我々の指導教官)は、発表を見に来なかった……
どうしてこうなった:
なぜこんな事態に陥ったのか。それは序盤での先生の発言に象徴される。そう、「とりあえず出来るとこまで作ってみて」である。つまり目標が無い。作ること自体が目的になっている。これを私は“先の見えないボトムアップ主義”と呼んでいる。これが、研究室を崩壊させた元凶でもある。
プロジェクトを成功に導くためには、目的を定義し、そこに至るために満たすべき条件を列挙し、それらを達成するためにやるべきことを、即座に実行可能な具体的タスクのレベルまでブレークダウンすることが必要である。そういったプロジェクトマネジメント作業がまったく行われなかったのだ。
犠牲になったもの:
何だかんだで、莫大な時間と労力が犠牲になった。2月中の3週間はまるごと潰れたと言っていい。このせいで、ES ・履歴書の作成が妨げられた上、諦めた説明会もいくつかある。就活に少なからぬ影響を与えた。
また、それまでの数ヶ月間も、精神的に大きなしこりを抱えたまま過ごしているので、不健康であった。自主プロが無ければもっと闊達に研究を進めることができ、成果が出ていたかもしれない。
そしてもちろん、浪費された公金10万円。広島市民の皆様に土下座して謝罪しなければなるまい。この金で学生の就活旅費を補助する、とかしたほうが1億倍マシである。
得たもの:
これ以上の苦しみはない、というデスマーチを体験し、精神的に強くなれたこと。そして、どうやったらプロジェクトが失敗するのか、痛いほど体感できたこと。しかしコストに見合ってない。
教訓:
この日記の文言に集約される。
もう“とりあえず“はやめようぜ!
ちゃんと目標を立てて計画的に無駄なく必要なものだけを適確にやるようにしようぜ!!!
ビ ジ ョ ン を 持 と う ぜ ! ! ! !
本当に、これに尽きる。自主プロを履修したのが悪いのではない。先のことを考えずにとりあえずやる、というのが最悪なのだ。こんな当たり前のことを、死にそうな思いで噛みしめた23歳の冬であった。 終
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というわけで自主プロデスマーチ、お楽しみいただけましたでしょうか。
最初から最後まで最悪なプロジェクトでした。キーワードとなる「先の見えないボトムアップ」ですが、実はこれ就職後にも体験します。就職1年目の秋から配属されたプロジェクトでは、偉い人の気が変わる度に私の業務範囲もどんどん拡張されていきました。
何かの研究開発に携わる皆さん、こういうのに気をつけましょう!!(雑)
2017/02/02 (Thu.) Comment(0) 大学院・研究生活
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